宇和島市三間町にある太宰遊淵の墓へ行ってきました!
今回も取材の時間があまり取れなかったので、前回の正法寺の近くにある太宰遊淵(だざいゆうえん)の墓へ行ってきました。
太宰遊淵は、本名太宰喜左衛門定義といい、旧北宇和郡(三間町、津島町、吉田町、広見町、松野町、日吉村)内一の広さと水量を誇っている中山池構築に功績があった人です。また、遊淵の号は宇和島藩より贈られたものといわれています。
古来この地方は水利の便が悪く、多くの土地が荒蕪(こうぶ)の状態で、このことを嘆いた遊淵が池を造って灌漑に資したいと考え、寛永4年(1627年)に工を起こし、同7年(1630年)に竣工したといわれていますが、工事の規模は予想外に大きく難工事であったため、遊淵の苦悩も一方ではなく最後には現在彼の墓地のあるところに静座して、鉦を打ち鳴らしながら阿弥陀の称号を唱えて完成を念じたが、竣工の日にそのまま入定(にゅうじょう)したと伝えられています。
ただ、遊淵が大池を築くことを考えたのは、単なる思いつきではなく、宇和島に城の濠を掘る時、その一部を請負って美事に完成し、土木工事に自信を有していたからであるといわれています。
三間町では、米づくりに必要な水の取水源として三間川及びその支流や町内に約108箇所あるため池に頼っており、戸雁、宮野下、迫目、務田や黒井地の一部の美田はほとんどこの中山池の恩恵に浴しているようです。
市指定記念物(史跡)である太宰遊淵の墓の大体の位置はこちら。
三間町に約8年も住んでいるのに、遊淵の墓の場所をよく知らず、中山池周辺を歩き回ったけど見つけることが出来なかったので、結局、近くにいた日本郵政の方に案内していただきました。(案内してくれた方ありがとうございました。)
およその位置だけでは、分かりにくいと思いますので、簡単に道順を説明します。

①県道283号線を通り、市立三間中学校とグリーンハイツ金山の間の道を直進すると、上記写真の十字路へ到着しますので、ここを左折します。(右折すると前回紹介した正法寺があります。)

②①を左折すると坂道の手前に十字路(上記写真)がありますので、ここを左折します。

③②を左折し、5~10mほど進むと右手に中山池へ向かう道があります。上記写真の道を直進すると記念碑へ、上記写真の右手に写っている階段を上ると太宰遊淵の墓に到着します。(*個人所有地で、近くに個人の墓がありますので、注意してください。)

上記写真の左側に写っているのが市指定記念物(史跡)である「太宰遊淵の墓」です。

わかりづらいので、五輪塔を横からアップでパチリ。

せっかく来たので、記念碑もついでにパチリ。
記念碑は全部で4つありました。
上の写真が平成5年建立の記念碑です。
下の写真にある記念碑が右から、昭和51年建立(三百五十年祭記念)、明治24年建立、大正15年建立(三百年祭記念)です。

明治24年建立の記念碑に文字が刻まれていましたので、その釈文を載せます。
「中山池は、伊豫の国宇和郡黒井地村に在り。故村正(庄屋)太宰義祐翁の開鑿する所なり。寛永四年を以て業を創(はじ)め、四歳を歴(へ)て落成すと云ふ。蓋(けだ)し、翁・農工に精(くわ)しく水利に察(あき)らかなり。故に此の大事業有りて即ち、其の利數村に洽(あまね)く、其の澤(めぐみ)百世に被(こうむる)なり。九代の孫儀夫、祖功の湮滅(いんめつ)せんことを恐れて石に刻し、以て不朽に垂る。詩(詩経)に云ふ。「爾(なんじ)の祖を念(おも)う無からんや。厥(そ)の徳を聿(の)べ修む」と。是を記と為す。」
*三間町誌によると「遊淵を義祐としている資料もあるが、義祐は遊淵の子に当たり貞義が正しい」とのこと
最後に、11月28日から1月3日までの期間、中山池自然公園では、18時から24時までイルミネーションが点灯されています。綺麗なので、是非、見てください。見た感じでは去年よりも点灯数が多くなっていると思います。(去年紹介した中山池自然公園イルミネーションの記事はこちら)
引用・出典:愛媛のくらし(平成10年度地域文化調査報告書)、三間町誌、新宇和島の自然と文化(一)
以上、三間米大好き二名っ子(ふたなっこ)でした。
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太宰遊淵は、本名太宰喜左衛門定義といい、旧北宇和郡(三間町、津島町、吉田町、広見町、松野町、日吉村)内一の広さと水量を誇っている中山池構築に功績があった人です。また、遊淵の号は宇和島藩より贈られたものといわれています。
古来この地方は水利の便が悪く、多くの土地が荒蕪(こうぶ)の状態で、このことを嘆いた遊淵が池を造って灌漑に資したいと考え、寛永4年(1627年)に工を起こし、同7年(1630年)に竣工したといわれていますが、工事の規模は予想外に大きく難工事であったため、遊淵の苦悩も一方ではなく最後には現在彼の墓地のあるところに静座して、鉦を打ち鳴らしながら阿弥陀の称号を唱えて完成を念じたが、竣工の日にそのまま入定(にゅうじょう)したと伝えられています。
ただ、遊淵が大池を築くことを考えたのは、単なる思いつきではなく、宇和島に城の濠を掘る時、その一部を請負って美事に完成し、土木工事に自信を有していたからであるといわれています。
三間町では、米づくりに必要な水の取水源として三間川及びその支流や町内に約108箇所あるため池に頼っており、戸雁、宮野下、迫目、務田や黒井地の一部の美田はほとんどこの中山池の恩恵に浴しているようです。
市指定記念物(史跡)である太宰遊淵の墓の大体の位置はこちら。
三間町に約8年も住んでいるのに、遊淵の墓の場所をよく知らず、中山池周辺を歩き回ったけど見つけることが出来なかったので、結局、近くにいた日本郵政の方に案内していただきました。(案内してくれた方ありがとうございました。)
およその位置だけでは、分かりにくいと思いますので、簡単に道順を説明します。

①県道283号線を通り、市立三間中学校とグリーンハイツ金山の間の道を直進すると、上記写真の十字路へ到着しますので、ここを左折します。(右折すると前回紹介した正法寺があります。)

②①を左折すると坂道の手前に十字路(上記写真)がありますので、ここを左折します。

③②を左折し、5~10mほど進むと右手に中山池へ向かう道があります。上記写真の道を直進すると記念碑へ、上記写真の右手に写っている階段を上ると太宰遊淵の墓に到着します。(*個人所有地で、近くに個人の墓がありますので、注意してください。)

上記写真の左側に写っているのが市指定記念物(史跡)である「太宰遊淵の墓」です。

わかりづらいので、五輪塔を横からアップでパチリ。

せっかく来たので、記念碑もついでにパチリ。
記念碑は全部で4つありました。
上の写真が平成5年建立の記念碑です。
下の写真にある記念碑が右から、昭和51年建立(三百五十年祭記念)、明治24年建立、大正15年建立(三百年祭記念)です。

明治24年建立の記念碑に文字が刻まれていましたので、その釈文を載せます。
「中山池は、伊豫の国宇和郡黒井地村に在り。故村正(庄屋)太宰義祐翁の開鑿する所なり。寛永四年を以て業を創(はじ)め、四歳を歴(へ)て落成すと云ふ。蓋(けだ)し、翁・農工に精(くわ)しく水利に察(あき)らかなり。故に此の大事業有りて即ち、其の利數村に洽(あまね)く、其の澤(めぐみ)百世に被(こうむる)なり。九代の孫儀夫、祖功の湮滅(いんめつ)せんことを恐れて石に刻し、以て不朽に垂る。詩(詩経)に云ふ。「爾(なんじ)の祖を念(おも)う無からんや。厥(そ)の徳を聿(の)べ修む」と。是を記と為す。」
*三間町誌によると「遊淵を義祐としている資料もあるが、義祐は遊淵の子に当たり貞義が正しい」とのこと
最後に、11月28日から1月3日までの期間、中山池自然公園では、18時から24時までイルミネーションが点灯されています。綺麗なので、是非、見てください。見た感じでは去年よりも点灯数が多くなっていると思います。(去年紹介した中山池自然公園イルミネーションの記事はこちら)
引用・出典:愛媛のくらし(平成10年度地域文化調査報告書)、三間町誌、新宇和島の自然と文化(一)
以上、三間米大好き二名っ子(ふたなっこ)でした。
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コメント
太宰家と児島惟謙
Re: 太宰家と児島惟謙
コメントありがとうございます。
小さい頃に聞いた話って意外と耳に残っているような気がしますので、小さい時から地域のことを色々と教わるのは大切だと思います。
しかし、児島惟謙の母のことはまったく知りませんでした。
個人的にブログの取材で地域を巡っていますが、最近、maさんみたいな知識が豊富な観光ガイドと、四賢候と称えられた伊達宗城、穂積兄弟、児島惟謙など宇和島が誇れる人達に関わる史跡めぐりが出来る体制があれば、魅力ある観光資源になるのでは?とふと思います。
また、休日はブログの取材でまったく時間が取れていませんが、我が子に地域のことを教えるため、南予地域に関する書籍などがあれば時間をつくり読んでみたいと思いますので、参考となる良い書籍があれば教えていただければと思います。
とりあえず、教えていただいた宇和津彦神社境内にある惟謙の慰霊碑を近いうちに見に行きたいと思います。
小さい頃に聞いた話って意外と耳に残っているような気がしますので、小さい時から地域のことを色々と教わるのは大切だと思います。
しかし、児島惟謙の母のことはまったく知りませんでした。
個人的にブログの取材で地域を巡っていますが、最近、maさんみたいな知識が豊富な観光ガイドと、四賢候と称えられた伊達宗城、穂積兄弟、児島惟謙など宇和島が誇れる人達に関わる史跡めぐりが出来る体制があれば、魅力ある観光資源になるのでは?とふと思います。
また、休日はブログの取材でまったく時間が取れていませんが、我が子に地域のことを教えるため、南予地域に関する書籍などがあれば時間をつくり読んでみたいと思いますので、参考となる良い書籍があれば教えていただければと思います。
とりあえず、教えていただいた宇和津彦神社境内にある惟謙の慰霊碑を近いうちに見に行きたいと思います。
三間の昔話し
とりあえずお勧めは私が小6の時に三間町教育委員会が編纂した「三間の昔話し」です♪
この本は三間中学校と3小学校の生徒に自分の親や祖父母から昔話しを取材させて記事を集めたもので、ほとんど生徒の原文のまま載せてあり、表紙や挿絵も生徒が描いています。
その時の町長さんが黒田雄一町長さんなのですが、まえがきの言葉が大本当に郷土愛に溢れていますので、是非読んでいただきたいと思います。
この本は二名小学校の図書館にもあると思いますが、土居垣内のおじさんの家にはあるみたいですよ~先日八幡神社のある橘城の場所を教えて頂き、1時間もお話ししました。
あと史跡ツアーは自分も考えているのですが、予土線存続の為に、沿線上から見られる史跡の確認と、各駅で下車して次の便が来るまでに行ける史跡のリストアップを考えています。
これを考えるようになったきっかけは勿論「窓峠隧道復権プロジェクト」です☆
この本は三間中学校と3小学校の生徒に自分の親や祖父母から昔話しを取材させて記事を集めたもので、ほとんど生徒の原文のまま載せてあり、表紙や挿絵も生徒が描いています。
その時の町長さんが黒田雄一町長さんなのですが、まえがきの言葉が大本当に郷土愛に溢れていますので、是非読んでいただきたいと思います。
この本は二名小学校の図書館にもあると思いますが、土居垣内のおじさんの家にはあるみたいですよ~先日八幡神社のある橘城の場所を教えて頂き、1時間もお話ししました。
あと史跡ツアーは自分も考えているのですが、予土線存続の為に、沿線上から見られる史跡の確認と、各駅で下車して次の便が来るまでに行ける史跡のリストアップを考えています。
これを考えるようになったきっかけは勿論「窓峠隧道復権プロジェクト」です☆
Re: 三間の昔話し
コメントありがとうございます。
「三間の昔話」を借りて読んでみたいと思います。情報THXです。
しかし、maさんが伯父の家にその本があることを知っているのに驚き!
一時間も話したということは、話が盛り上がったようですね。
各駅で下車して次の便が来るまでに行ける史跡のリストアップづくりがんばってください!
「窓峠隧道復権プロジェクト」もうまく進むと良いのですね。
「三間の昔話」を借りて読んでみたいと思います。情報THXです。
しかし、maさんが伯父の家にその本があることを知っているのに驚き!
一時間も話したということは、話が盛り上がったようですね。
各駅で下車して次の便が来るまでに行ける史跡のリストアップづくりがんばってください!
「窓峠隧道復権プロジェクト」もうまく進むと良いのですね。
コメントの投稿
« 宇和島市津島町岩松の町並みを歩いてみました。 l ホーム l 「千鳥」・「花神」の宇都宮酒造さんに行ってきました。 »
黒井地側の土手を見るたび遊淵のことを思い出してしまいますよ。
自分がこの話をはじめて聞いたのは三間小の時で、じつに池本先生からでした。
黒井地の庄屋であった太宰家の他の墓は正法寺と太宰家の山にありますが、児島惟謙の母親は実は太宰家なんですよ。\(^▽^*)
また太宰家の先祖は京都の藤原家です。
宇和島の宍戸家に奉公に入った時に宍戸家から紹介された人に嫁ぐのですが、月日を待たず惟謙が生まれたので離縁されてしまいます。
後の面倒を宍戸家が見たのはいうまでもないでしょう…(’-’;)
惟謙は法学を修め裁判官になりますが、なぜか苗字を何度も変えています。
また母親が苦労したからでしょう…母親の墓は太宰家の中で誰よりも立派の墓を惟謙が建てたのです。。
最近の出来事では昨年、惟謙の孫になる方(東京在住)が宇和津彦神社境内に惟謙の慰霊碑を建立しました。