高野長英が設計した砲台跡

こんにちは。 どんぐりです。

今回は、前回の天儀鼻の続きで 愛南町久良にある
高野長英が設計した砲台跡をご紹介します。(場所はこちら

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久良の集落から天儀ノ鼻へ至るちょうど真ん中辺りで、
道路がここだけ やたらと広くなっていますので
すぐ分かりますよ。

道路わきに この看板があります。

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看板の脇を少し下りると、すぐ見えてきました。

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諸外国が軍艦を派遣し開国を迫った幕末時代、宇和島藩も幕府の要請受け、
海岸防備のため砲台の建設に着手することとなりましたが、
折しも宇和島藩第8代藩主・伊達宗城は幕府に追われる蘭学者・高野長英を
かくまっており、その長英に設計を命じたのだそう。

設計後、工事に取りかかったものの、幕府の追手が迫った嘉永2年、
高野長英は宇和島を離れたそうです。
この砲台はその翌年嘉永3年5月に 宇和島藩初の砲台として完成しました。

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石垣が見えますね。
先ほどの看板にあった図によると・・

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この石垣は、手前の「への字」になっている石垣のうち
中央からやや左にかけての部分のようです。

看板の立っている辺りが 中央付近のようです。

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今は木が茂っていますが、中央と思われる部分(この写真の右半分)は
小高く盛られており、その左右にくぼんだ部分が確認できました。
砲台は左右に1基ずつの計2基ですから、このくぼみが砲台の位置と思われます。

火縄を使用した 趯発砲(シャクリウチホウ)と呼ばれる大砲があったらしいです。

右の砲台は天儀ノ鼻の沖あたりを向いており
左の砲台は深浦湾の入り口を狙う位置になります。

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これが左側の景色です。 確かに、深浦湾の入り口がよく見渡せます。
天然の良港と言われる深浦港ですが、
江戸の時代にも防衛上の重要拠点だったんですね。


この砲台のすぐ右下の浜辺を見ると、当時の面影を残すものがありました。

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浜のすぐ後ろに並ぶ、長い石塁がそうです。

これは、砲台の関連施設で、石塁の背後には砲術師や番人らの屋敷があったそうで、
それを守る目的で築かれたものです。

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この小道を下りていくと・・

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ありました。
・・が、近くで見ると思ったより長く、高さもありますねー。
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長さは約100m、高さ2.5mもあるそうで
二段構築で、前段は犬走りになっています。

石塁の背後は かなり草が茂っているので、かつての痕跡があるかどうか
分け入ってまでは確認しませんでした。

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この切り下げた部分は
海の様子などを確認するためのものでしょうね。


どのような形でここに屋敷があったのでしょう・・。
いろいろ調べてみましたが 分かりませんでした。

もし 資料が残っているのなら
看板などに示してあるといいですね。


ちなみに、ここにあった屋敷の一部が
日土地区に移築されているそうなんですが・・
残念ながら それも確認できませんでした(T_T)


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振り返ると、先程の砲台跡があった場所(写真中央)が見えます。
あの場所に高野長英も立ったのでしょうかね・・。

宇和島の城下からでも、かなり距離がありますが・・
遠くまで 御苦労さまです。

IMG_5144.jpg

今回は・・
史跡が草木に覆われつつある姿を 少し寂しく感じた
どんぐりでした。



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