宇和島市にある和霊神社へ行ってきました!
勤労感謝の日に子供3人を連れて和霊神社へ行ってきました。
宇和島市民にとっては馴染みの深い神社ですね。
実は、この神社の特徴として、
①神社は通常、何々のミコトとか、権現さまや、八幡様をご神体としますが、和霊神社は一人の家老のみ霊を祭ったものである。
②祭神の家老山家公は、百姓・漁民・町人いわゆる民衆の讃仰により祀られたもので、大衆の守護神として信仰を集めた。
の2つが挙げられます。
しかも宇和島市には、和霊神社が2つあります。
石の鳥居では日本一の大きさを誇るといわれる約12~15mの花崗岩(かこうがん)で出来た鳥居があり、市民から「われいさま」と称される和霊神社、もう一つは、山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)邸宅跡にある和霊神社で、どちらも山家清兵衛公頼を祀っています。
話が変わりますが、この和霊神社の特異性(上記①②)を、歴史の神秘性や物語性(一人の家老の霊を祀った経緯や宇和島藩の大衆などから敬愛された理由)を詳細にまとめ、観光ボランティアガイドなどの活用によりうまくPRできれば、今よりも魅力ある観光資源になるのでは?と思うことがあります。(神社+神秘性=見てみたいという単純思考の思いつきなので、既にやってるかもしれませんが。。。)
下の写真は、宇和島市丸之内にある山家清兵衛公頼邸宅跡にある和霊神社です。

神社内の駐車場は月極駐車場となっていました。車で来られる場合は、近くの有料駐車場へ止めてください。(神社の場所はこちら)

鳥居をくぐるとすぐ左に昭和43年1月9日に指定された「山家清兵衛公頼邸宅跡」の市指定史跡などの表示がありました。

神社をパチリ。
この場所が「山家清兵衛公頼邸宅跡」ということは、ここが、領民から敬慕の的であった山家清兵衛公頼が暗殺され、いわゆる和霊騒動(又は宇和島騒動)が起きた現場となるわけです。
山家清兵衛公頼が暗殺されたのが、元和6年(1620年)6月ですから、およそ390年前の出来事ですよ~。

神社の裏には、山家清兵衛公頼の子供である幼い山家美濃(数えでわずか9才)が亡くなったとされる井戸があります。
和霊騒動は、美濃のほか、数え17才(14才かも?)の円治と数え19才の治部などの若い命も失っている痛ましい事件です。

案内板がありましたので、パチリ。

この井戸の水は今も枯れることがないとおいらは聞いていたので、本当かどうか知りたくて、ちょっと無理言って見せてもらうことにしました。

デジカメのフラッシュが反射していることから水があることが分かると思います。肉眼でも確認できました。

当時の山家邸宅で使っていたといわれる井戸車なども見せていただきました。さすがに、井戸車は虫喰いの後がたくさんありました。しかし、こんな物がきちんと保存されていることに驚きました。すごい!

縄などをアップでパチリ。
ここへ取材に来て、和霊騒動について詳しく知りたいという思いが強くなったのですが、宇和島藩の筆頭家老を暗殺した事件なので、まさかそんな事件の真相がわかる証拠は普通残さないよね?(勉強不足なので、良い資料があれば教えてください。)
最後に、宇和島市和霊町にある和霊神社の写真です。

秀宗公が山家清兵衛公頼の霊を和らげるために神社建立の悲願をたて、寛永8年(1631年)に須賀川のほとり森安に小祠を建て、此処へ山家公のご神霊を勧請して「児玉明神」と称えたのが、現在の和霊神社の始まりとされています。(その後、社は5回遷座移転されています。)
なお、山頼和霊神社と改称されたのは、承応2年(1653年)です。
また、毎年7月23・24日に行われる和霊大祭は、なぜこの日に行われるかというと、承応2年6月23日(旧暦)に奉幣の式が行われ、翌6月24日(旧暦)に白木造りの神輿にご神霊を移し家中、町中を巡行し、遷御の儀が終了したことを記念して、以後、この日に祭礼を行ったそうです。旧暦を現在の太陽暦に直すと7月23・24日になります。
出典・引用:和霊宮由来 昭和47年7月15日和霊神社社務所発行
和霊神社について興味がある方は、和霊町にある和霊神社で和霊宮由来が300円で購入できますので、是非、一読してみてください。
追記
取材に協力していただいた和霊神社の方、ありがとうございました。
以上、取材のあと子供3人と城山公園でお弁当を食べた三間米大好き二名っ子(ふたなっこ)でした。
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宇和島市民にとっては馴染みの深い神社ですね。
実は、この神社の特徴として、
①神社は通常、何々のミコトとか、権現さまや、八幡様をご神体としますが、和霊神社は一人の家老のみ霊を祭ったものである。
②祭神の家老山家公は、百姓・漁民・町人いわゆる民衆の讃仰により祀られたもので、大衆の守護神として信仰を集めた。
の2つが挙げられます。
しかも宇和島市には、和霊神社が2つあります。
石の鳥居では日本一の大きさを誇るといわれる約12~15mの花崗岩(かこうがん)で出来た鳥居があり、市民から「われいさま」と称される和霊神社、もう一つは、山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)邸宅跡にある和霊神社で、どちらも山家清兵衛公頼を祀っています。
話が変わりますが、この和霊神社の特異性(上記①②)を、歴史の神秘性や物語性(一人の家老の霊を祀った経緯や宇和島藩の大衆などから敬愛された理由)を詳細にまとめ、観光ボランティアガイドなどの活用によりうまくPRできれば、今よりも魅力ある観光資源になるのでは?と思うことがあります。(神社+神秘性=見てみたいという単純思考の思いつきなので、既にやってるかもしれませんが。。。)
下の写真は、宇和島市丸之内にある山家清兵衛公頼邸宅跡にある和霊神社です。

神社内の駐車場は月極駐車場となっていました。車で来られる場合は、近くの有料駐車場へ止めてください。(神社の場所はこちら)

鳥居をくぐるとすぐ左に昭和43年1月9日に指定された「山家清兵衛公頼邸宅跡」の市指定史跡などの表示がありました。

神社をパチリ。
この場所が「山家清兵衛公頼邸宅跡」ということは、ここが、領民から敬慕の的であった山家清兵衛公頼が暗殺され、いわゆる和霊騒動(又は宇和島騒動)が起きた現場となるわけです。
山家清兵衛公頼が暗殺されたのが、元和6年(1620年)6月ですから、およそ390年前の出来事ですよ~。

神社の裏には、山家清兵衛公頼の子供である幼い山家美濃(数えでわずか9才)が亡くなったとされる井戸があります。
和霊騒動は、美濃のほか、数え17才(14才かも?)の円治と数え19才の治部などの若い命も失っている痛ましい事件です。

案内板がありましたので、パチリ。

この井戸の水は今も枯れることがないとおいらは聞いていたので、本当かどうか知りたくて、ちょっと無理言って見せてもらうことにしました。

デジカメのフラッシュが反射していることから水があることが分かると思います。肉眼でも確認できました。

当時の山家邸宅で使っていたといわれる井戸車なども見せていただきました。さすがに、井戸車は虫喰いの後がたくさんありました。しかし、こんな物がきちんと保存されていることに驚きました。すごい!

縄などをアップでパチリ。
ここへ取材に来て、和霊騒動について詳しく知りたいという思いが強くなったのですが、宇和島藩の筆頭家老を暗殺した事件なので、まさかそんな事件の真相がわかる証拠は普通残さないよね?(勉強不足なので、良い資料があれば教えてください。)
最後に、宇和島市和霊町にある和霊神社の写真です。

秀宗公が山家清兵衛公頼の霊を和らげるために神社建立の悲願をたて、寛永8年(1631年)に須賀川のほとり森安に小祠を建て、此処へ山家公のご神霊を勧請して「児玉明神」と称えたのが、現在の和霊神社の始まりとされています。(その後、社は5回遷座移転されています。)
なお、山頼和霊神社と改称されたのは、承応2年(1653年)です。
また、毎年7月23・24日に行われる和霊大祭は、なぜこの日に行われるかというと、承応2年6月23日(旧暦)に奉幣の式が行われ、翌6月24日(旧暦)に白木造りの神輿にご神霊を移し家中、町中を巡行し、遷御の儀が終了したことを記念して、以後、この日に祭礼を行ったそうです。旧暦を現在の太陽暦に直すと7月23・24日になります。
出典・引用:和霊宮由来 昭和47年7月15日和霊神社社務所発行
和霊神社について興味がある方は、和霊町にある和霊神社で和霊宮由来が300円で購入できますので、是非、一読してみてください。
追記
取材に協力していただいた和霊神社の方、ありがとうございました。
以上、取材のあと子供3人と城山公園でお弁当を食べた三間米大好き二名っ子(ふたなっこ)でした。
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