はじめまして、新年第二弾お邪魔いたします~。
皆様あけましておめでとうございます。ブログ初参戦のPONと申します。
南予もブログも初心者なのでかなりドキドキ・・不慣れ感が否めませんが温かい目で見守っていただけると嬉しいです。
では本題に・・
今回は(ちょっと前になりますが)宇和島藩伊達家の菩提寺のひとつ、龍華山等覚寺
に行ってまいりましたので、その様子をばご紹介したいと思います。(場所はこちら)
住宅が立ち並ぶ辰野川沿いの道を歩いていると、ひょっこり現れる立派な門。

龍華山等覚寺の山門です。このお寺は1616年に伊達家初代藩主が母を弔うために建てたもので、境内には歴代藩主のお墓が並んでいます。ちなみにこの山門は等覚寺に残るただひとつの往時の建築だそう。
な~る、歴史を感じる壮大さです。
ではでは境内に入ってみます。墓所は東西に分かれています。まずは西墓所から・・
全体図のような・・。ヒノキの木が立ち並ぶ美しい墓所です。
時折鳥のさえずりが聞こえたりして癒されますなぁ~。
向かって右にちらっと見えるのが伊達家歴代藩主のお墓です。
ちっちゃくて分らないですよね~じゃあもっと近寄ってみます。

まずは初代宇和島藩主秀宗(ひでむね・1591~1658)のお墓。で でかいです。
秀宗はかの有名な伊達政宗の長男なのですが、幼い頃豊臣秀吉の猶子となり(いわば伊達家の人質です)、秀吉のもとで元服したことなどから、政宗が徳川家に遠慮して仙台の跡継ぎになれなかったそう。長い間人質になったり別家にされたり・・長男なのになんだか可哀想ですね。
左右には4人の殉死者のお墓が主君に寄り添うようにひっそりとありました。
そのお隣にはまたまた立派なお墓が。

これは3代藩主宗贇(むねよし)・・の奥様の三保姫のお墓だそう。
後で宗贇のお墓も紹介しますが、そちらは凄く小さいのです。かかあ天下だったんですね。・・違うか!
さてさて更に墓所の奥に行くと、2つ並んだお墓が

あったのですがなぜか一つしか写真が残ってないという(すみません・・)
こちらは9代藩主宗徳(むねえ)の奥様佳子のお墓。右側に、同じく夫人の孝子のお墓がありました。
ん?お墓の形がちょっと違いますね。なんだか現代風
(?)です。
佳子さんといえば、当時秋田の佐竹家から輿入れしてきた際の豪華絢爛な乗物が有名で、なんでも当時の女乗物としては最高級
のものだったとか。
御殿町にある「伊達博物館」に展示されていますので興味のあるかたはご覧になってみては・・(私も近いうち見に・・)
そしてお隣にあるのが4代藩主村年(むらとし・1705~1735)のお墓です。

初代と比べると随分サイズダウンしています。
村年の代は風水害や凶作や大飢饉が続き、藩財政が随分苦しい状態だったようです。だからなのでしょうか。
村年は倹約令など様々な改革を試みるなか31歳の若さで急死したそう。ひっそりとたたずむお墓になんだか哀愁を感じます。
次は東墓所です。
まず初めにあるのが10代藩主宗陳(むねのぶ・1860~1923)のお墓。

この方は宮内省式部官、主猟官、宮中顧問官をつとめたそう。大正12年死去とのことでお墓もどことなく現代に近いですね。
更に奥へと進むと・・
右が8代藩主宗城(むねなり・1818~1892)と左が奥様の楢のお墓です。

宗城は歴代藩主のなかでも特に有名な方で、殖産興業で藩財政をたて直したり、海外の情勢に積極的に目を向け、高野長英や村田亮庵(後の大村益次郎)を招いて、蘭学の積極的導入や砲台の築造、軍艦の建造など軍備の近代化に力を注ぎ、その明察力と功績により松平春嶽、山内容堂、島津久光と並び「幕末の四賢候」といわれていたようです。
時代を先取りしたナウい
お方だったということですね!
過去の記事で二名っ子さんが紹介してくださった「樺崎砲台」はこの時代に村田蔵六が考案したものといわれています。
さてさてお次は・・
2代藩主宗利(むねとし・1635~1709)のお墓です。

お墓の形が初代風(?)に戻りました。ちょこんとしたかわいいサイズ
です。
宗利は老朽化した宇和島城の天守を再建したり、追手門を建造したりと、宇和島城の大修築を行ったお方だそうです。
現在の宇和島城の天守は、この時代からそのままの姿を保っているんですねぇ。
更にお隣に行くと、6代藩主村寿(むらなが・1763~1836)と、そのご夫人順子のお墓が
あったはずなんですが・・・
なぜかまた写真がありません。非常にすみません。気を取り直して、最後のお墓に参りましょう。
最後は3代藩主宗贇(むねよし)のお墓です。

上で紹介した三保姫の旦那様です。撮り方が悪いので分かりにくいですが・・大きさが全然ちがいます。
この当時宇和島藩は7万石だったのですが(初代藩主秀宗が五男の宗純に3万石を分知していたため)、宗贇は実質7万石の収入のところを10万石と過大申告し、これに幕府が気をよくして10万石格に高直しされたそうです。
でもそのため藩財政はますます苦しくなったそう。スモールサイズはそのせいなんですかねぇ。
あれ・・でも奥さんは・・。
やっぱりかかあ天下d(以下略)
以上、龍華山等覚寺にある伊達家墓所の紹介でした。言葉足らず画像足らずですみません・・。
ちなみに龍華山から歩いて10分くらいのとこに同じく伊達家菩提寺の「金剛山大隆寺」があるのですが、そちらはまた次の機会に・・。
最後にひとつ!去る2009年12月23日(祝日)、こちらの龍華山等覚寺と金剛山大隆寺において、県南予地方局と宇和島市内の各団体の有志が「ウインターボランティア・キャンペーン2009」の一環として、共同清掃ボランティアを行いました~。私も参加いたしました^^
(当日の様子は愛媛ボランティアネット記事にて)
一層美しくなった
墓所を一度訪れてみてはいかがでしょうか。
ではでは、南予見習いのPONでした。今年もよろしくお願いします!
南予もブログも初心者なのでかなりドキドキ・・不慣れ感が否めませんが温かい目で見守っていただけると嬉しいです。

では本題に・・
今回は(ちょっと前になりますが)宇和島藩伊達家の菩提寺のひとつ、龍華山等覚寺

住宅が立ち並ぶ辰野川沿いの道を歩いていると、ひょっこり現れる立派な門。

龍華山等覚寺の山門です。このお寺は1616年に伊達家初代藩主が母を弔うために建てたもので、境内には歴代藩主のお墓が並んでいます。ちなみにこの山門は等覚寺に残るただひとつの往時の建築だそう。
な~る、歴史を感じる壮大さです。
ではでは境内に入ってみます。墓所は東西に分かれています。まずは西墓所から・・

全体図のような・・。ヒノキの木が立ち並ぶ美しい墓所です。
時折鳥のさえずりが聞こえたりして癒されますなぁ~。

向かって右にちらっと見えるのが伊達家歴代藩主のお墓です。
ちっちゃくて分らないですよね~じゃあもっと近寄ってみます。

まずは初代宇和島藩主秀宗(ひでむね・1591~1658)のお墓。で でかいです。
秀宗はかの有名な伊達政宗の長男なのですが、幼い頃豊臣秀吉の猶子となり(いわば伊達家の人質です)、秀吉のもとで元服したことなどから、政宗が徳川家に遠慮して仙台の跡継ぎになれなかったそう。長い間人質になったり別家にされたり・・長男なのになんだか可哀想ですね。
左右には4人の殉死者のお墓が主君に寄り添うようにひっそりとありました。
そのお隣にはまたまた立派なお墓が。

これは3代藩主宗贇(むねよし)・・の奥様の三保姫のお墓だそう。
後で宗贇のお墓も紹介しますが、そちらは凄く小さいのです。かかあ天下だったんですね。・・違うか!
さてさて更に墓所の奥に行くと、2つ並んだお墓が

あったのですがなぜか一つしか写真が残ってないという(すみません・・)
こちらは9代藩主宗徳(むねえ)の奥様佳子のお墓。右側に、同じく夫人の孝子のお墓がありました。
ん?お墓の形がちょっと違いますね。なんだか現代風

佳子さんといえば、当時秋田の佐竹家から輿入れしてきた際の豪華絢爛な乗物が有名で、なんでも当時の女乗物としては最高級

御殿町にある「伊達博物館」に展示されていますので興味のあるかたはご覧になってみては・・(私も近いうち見に・・)
そしてお隣にあるのが4代藩主村年(むらとし・1705~1735)のお墓です。

初代と比べると随分サイズダウンしています。
村年の代は風水害や凶作や大飢饉が続き、藩財政が随分苦しい状態だったようです。だからなのでしょうか。
村年は倹約令など様々な改革を試みるなか31歳の若さで急死したそう。ひっそりとたたずむお墓になんだか哀愁を感じます。
次は東墓所です。
まず初めにあるのが10代藩主宗陳(むねのぶ・1860~1923)のお墓。

この方は宮内省式部官、主猟官、宮中顧問官をつとめたそう。大正12年死去とのことでお墓もどことなく現代に近いですね。
更に奥へと進むと・・
右が8代藩主宗城(むねなり・1818~1892)と左が奥様の楢のお墓です。

宗城は歴代藩主のなかでも特に有名な方で、殖産興業で藩財政をたて直したり、海外の情勢に積極的に目を向け、高野長英や村田亮庵(後の大村益次郎)を招いて、蘭学の積極的導入や砲台の築造、軍艦の建造など軍備の近代化に力を注ぎ、その明察力と功績により松平春嶽、山内容堂、島津久光と並び「幕末の四賢候」といわれていたようです。
時代を先取りしたナウい

過去の記事で二名っ子さんが紹介してくださった「樺崎砲台」はこの時代に村田蔵六が考案したものといわれています。
さてさてお次は・・
2代藩主宗利(むねとし・1635~1709)のお墓です。

お墓の形が初代風(?)に戻りました。ちょこんとしたかわいいサイズ

宗利は老朽化した宇和島城の天守を再建したり、追手門を建造したりと、宇和島城の大修築を行ったお方だそうです。
現在の宇和島城の天守は、この時代からそのままの姿を保っているんですねぇ。
更にお隣に行くと、6代藩主村寿(むらなが・1763~1836)と、そのご夫人順子のお墓が
あったはずなんですが・・・
なぜかまた写真がありません。非常にすみません。気を取り直して、最後のお墓に参りましょう。
最後は3代藩主宗贇(むねよし)のお墓です。

上で紹介した三保姫の旦那様です。撮り方が悪いので分かりにくいですが・・大きさが全然ちがいます。
この当時宇和島藩は7万石だったのですが(初代藩主秀宗が五男の宗純に3万石を分知していたため)、宗贇は実質7万石の収入のところを10万石と過大申告し、これに幕府が気をよくして10万石格に高直しされたそうです。
でもそのため藩財政はますます苦しくなったそう。スモールサイズはそのせいなんですかねぇ。
あれ・・でも奥さんは・・。
やっぱりかかあ天下d(以下略)
以上、龍華山等覚寺にある伊達家墓所の紹介でした。言葉足らず画像足らずですみません・・。
ちなみに龍華山から歩いて10分くらいのとこに同じく伊達家菩提寺の「金剛山大隆寺」があるのですが、そちらはまた次の機会に・・。
最後にひとつ!去る2009年12月23日(祝日)、こちらの龍華山等覚寺と金剛山大隆寺において、県南予地方局と宇和島市内の各団体の有志が「ウインターボランティア・キャンペーン2009」の一環として、共同清掃ボランティアを行いました~。私も参加いたしました^^
(当日の様子は愛媛ボランティアネット記事にて)
一層美しくなった

ではでは、南予見習いのPONでした。今年もよろしくお願いします!
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