松野町目黒にある「山形模型」はとても珍しい資料です
こんにちは。
今回は、松野町目黒にある「目黒ふるさと館」に行ってきました。
(場所はこちら)
滑床渓谷の入り口にあります。

庄屋屋敷のイメージで平成3年に建てられたこの施設、
昔の民具なども展示されていて地域の歴史を偲ぶことができますが
一見、ちょっと立派な民家のようで 気付かない人も多いかも。
ところが、実は全国的にも大変珍しい資料が展示されています。
蔵を模した展示館に入ると・・

何やら大きなものがガラスケースに入っていますね。

これがその資料で、「山形模型」と呼ばれるものです。
昔、宇和島藩から吉田藩が分かれた時、ここ目黒地区は
宇和島藩の中に吉田藩領地が「飛び地」で残る状態となりましたが、
1658年、この領地の境界をめぐって
吉田藩目黒村と宇和島藩次郎丸村との間に 争いが起こりました。
決着がつかないこの争いは、やがて両藩の争いへと発展し、ついには
1664年、目黒村が江戸幕府に提訴することになります。
そこで同年、幕府は両藩に対し、絵図と山形を作成するように命じたのです。
つまりこれは、江戸時代の裁判資料ということですね。
長い江戸幕府体制のなかでも、全国でわずか4例しかないことでした。

地域の様子を描いた絵図(2.43m×3.18m)の上に
1.9m×2.62m、約2畳半ほどの山形が乗っています。
6つのピースに分けられるとはいえ・・
こんな大きなもの、よく江戸まで運びましたねえ。
これは起請文(きしょうもん)といって
山形を公平公正に作成することを誓ったもので、違反した場合には
神仏の罰を被る、と書いてあります。
(目黒村の庄屋・長左衛門の側が 記したものだそうです。)

山形の縮尺は約5900分の1。
今から346年も前に測量し、作成したものにもかかわらず、
測量の精度は極めて高いという分析がなされています。
測量で有名なあの伊能忠敬が 全国の測量を始めたのが1800年から。
それより130年以上も前に こうした測量技術を持っていたなんて
驚きです。
よく見ると、河川や里道、樹木の様子から
山際には人家の位置まで細かく描き込まれていますね。

さて、争いの顛末はというと
山形が幕府に提出された1665年のうちに裁定(判決)が下されました。
これがその内容。

「論争を取り調べたが、双方の申し出が不明確であるので、新たに境界を決めた」
「絵図の上に黒い線を引き足して渡すので、今後両者で よく了解したうえ、
この決定に違反することがないように」
とあります。
新たな境界線を引き足された絵図というのが こちら。

描き足された線の上には 丸い陰影が押してあります。
これ、裁定にあたった老中の印なんだそうですよ!

以後、この場所に関しては争いが無くなったそうですが、
この絵図、1812年に宇和島藩と目黒村で山境争いがあった際にも
境界確認の根拠に用いられたのだとか。
ところで、先ほど、幕府が山形を作らせ裁定した事例は4例といいましたが、
何を隠そう、あとの3例もすべて宇和島藩絡み(高知県境の篠山、沖ノ島)なんです。
ただ、山形と一緒に このような裁判資料が残っているのは、
日本にただひとつ、ここ松野町だけですから、とても貴重な資料であることは間違いありません!
・・ということで、この山形と絵図、記録文書類などが
国の重要文化財にも県の有形文化財にも指定されています。
松野町、特に森の国ホテルや滑床渓谷にお越しの際には
ちょっと「目黒ふるさと館」に寄ってみませんか?
【目黒ふるさと館】
所在地 愛媛県北宇和郡松野町大字目黒684番地2
電 話 0895-43-0148
休館日 毎週水曜日と年末年始
入館料 山形模型のある展示室のみ 200円
(中学生以下は無料)
団体割引(20名以上) 150円
どんぐりでした。
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今回は、松野町目黒にある「目黒ふるさと館」に行ってきました。
(場所はこちら)
滑床渓谷の入り口にあります。

庄屋屋敷のイメージで平成3年に建てられたこの施設、
昔の民具なども展示されていて地域の歴史を偲ぶことができますが
一見、ちょっと立派な民家のようで 気付かない人も多いかも。
ところが、実は全国的にも大変珍しい資料が展示されています。
蔵を模した展示館に入ると・・

何やら大きなものがガラスケースに入っていますね。

これがその資料で、「山形模型」と呼ばれるものです。
昔、宇和島藩から吉田藩が分かれた時、ここ目黒地区は
宇和島藩の中に吉田藩領地が「飛び地」で残る状態となりましたが、
1658年、この領地の境界をめぐって
吉田藩目黒村と宇和島藩次郎丸村との間に 争いが起こりました。
決着がつかないこの争いは、やがて両藩の争いへと発展し、ついには
1664年、目黒村が江戸幕府に提訴することになります。
そこで同年、幕府は両藩に対し、絵図と山形を作成するように命じたのです。
つまりこれは、江戸時代の裁判資料ということですね。
長い江戸幕府体制のなかでも、全国でわずか4例しかないことでした。

地域の様子を描いた絵図(2.43m×3.18m)の上に
1.9m×2.62m、約2畳半ほどの山形が乗っています。
6つのピースに分けられるとはいえ・・
こんな大きなもの、よく江戸まで運びましたねえ。
これは起請文(きしょうもん)といって
山形を公平公正に作成することを誓ったもので、違反した場合には
神仏の罰を被る、と書いてあります。
(目黒村の庄屋・長左衛門の側が 記したものだそうです。)

山形の縮尺は約5900分の1。
今から346年も前に測量し、作成したものにもかかわらず、
測量の精度は極めて高いという分析がなされています。
測量で有名なあの伊能忠敬が 全国の測量を始めたのが1800年から。
それより130年以上も前に こうした測量技術を持っていたなんて
驚きです。
よく見ると、河川や里道、樹木の様子から
山際には人家の位置まで細かく描き込まれていますね。

さて、争いの顛末はというと
山形が幕府に提出された1665年のうちに裁定(判決)が下されました。
これがその内容。

「論争を取り調べたが、双方の申し出が不明確であるので、新たに境界を決めた」
「絵図の上に黒い線を引き足して渡すので、今後両者で よく了解したうえ、
この決定に違反することがないように」
とあります。
新たな境界線を引き足された絵図というのが こちら。

描き足された線の上には 丸い陰影が押してあります。
これ、裁定にあたった老中の印なんだそうですよ!

以後、この場所に関しては争いが無くなったそうですが、
この絵図、1812年に宇和島藩と目黒村で山境争いがあった際にも
境界確認の根拠に用いられたのだとか。
ところで、先ほど、幕府が山形を作らせ裁定した事例は4例といいましたが、
何を隠そう、あとの3例もすべて宇和島藩絡み(高知県境の篠山、沖ノ島)なんです。
ただ、山形と一緒に このような裁判資料が残っているのは、
日本にただひとつ、ここ松野町だけですから、とても貴重な資料であることは間違いありません!
・・ということで、この山形と絵図、記録文書類などが
国の重要文化財にも県の有形文化財にも指定されています。
松野町、特に森の国ホテルや滑床渓谷にお越しの際には
ちょっと「目黒ふるさと館」に寄ってみませんか?
【目黒ふるさと館】
所在地 愛媛県北宇和郡松野町大字目黒684番地2
電 話 0895-43-0148
休館日 毎週水曜日と年末年始
入館料 山形模型のある展示室のみ 200円
(中学生以下は無料)
団体割引(20名以上) 150円
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コメント
No title
松野の山さんへ
判決を下される時って、時代劇のシーンでいうとこんな感じかな?なんて勝手に想像しながら見ていました。
ほんと、こんな資料がよく残っていたなあ、と驚くばかりです。
ほんと、こんな資料がよく残っていたなあ、と驚くばかりです。
終の棲み家
目黒の里に別荘地を探しています。古民家を譲ってもらえる方がおられたらと考えています。重度の障害を負っている身の上ですので静かに余生を送りたいと願っています。
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« 愛南びやびや祭り2011 に行ってきました (かつお編) l ホーム l クラシックカーでの震災復興チャリティーイベントがありました。 »
できました、ありがとうございました。
山形模型見に行ってきます。